わたしの人生語呂合わせ

OLの穏やかな思考

アーバンリサーチは怖くないし、家で食べる駅弁は良い

今日の日記。

 

7:00 起床。

ほんとうは土曜日にこんなに早く起きたくないが、なぜか一人暮らしを始めてから休日も早く目が醒めるようになった。わざわざ若干夜更かししたのだが、あんまり関係ないようだ。

朝のうちに缶と、瓶と、ダンボールを出さないといけないのでとりあえずごみを出す、その前にお腹が空いたので白菜と春雨でスープを作る。早く火を止めすぎたからか白菜が食べづらく別に美味しくはなかった。

昨日浴室乾燥をかけたはずなのにタオルが乾かない。いっそバスタオルをやめようかとも思う。洗面所に場所を移動して、夕方取り込むことにする。

親がボヘミアン・ラプソディーをたいへん勧めてくるので観ようか迷いつつ、近所の映画館を調べたが時間が合わない。来週にすれば良いかなと思い、買い物に行く。

 

9:00 買い物。

ホームセンターとスーパーを回って、生活雑貨と10日分くらいの食材を買う。こういうときに自転車が欲しいが、こういうときにしか欲しくない。買い物はやっとうまくなって余計な物を買わなくなり、しめて3000円。シャウエッセンが予想より安くて買いすぎてしまったし、ベーコンのキャパシティに感動してこれもたくさん買ってしまったから、おそらく野菜の方が足りなくなるだろう。野菜は10日分、肉はそれ以上にある。

 

帰ったらまず買ってきた野菜と肉を小分けにして冷凍する。冷凍庫があるおかげで自炊が成立する。そうでなければ野菜も肉も買えたものではない。技術に感謝、と毎週思う。

鶏肉の皮をはいでいると、わたしのために犠牲になった鶏に対する尊敬の念が湧いてくる。自活するようになると今まで全く考えなかったことをよく考える。

そんなこんなでもう正午になったので、昼食にする。

 

12:30 昼食。

きょうは生ハムを使い切ると決めていたので、ペペロンチーノにする。ペペロンチーノは簡単に作れるので外で食べなくなった。スパゲティを半分に折って小鍋(味噌汁とか作る用の)で茹でながら、沸騰する直前くらいにフライパンをあたためてオリーブオイルでニンニクを炒める。ニンニクはチューブでいいし、分量はテキトーでいい。そこに赤唐辛子の輪切りを入れる。赤唐辛子の輪切りはなんの栄養にもならなそうな見た目をしているが、炒め物にも使えるし、鍋にも入れられるし、コスパは悪くない。

そこでふとひらめいて、買ってきたツナ缶を投入した。これが大正解だった。茹で時間より少し短く茹でたスパゲティをフライパンに投入する。ここで若干炒めるのだが、茹で汁をある程度入れないとパサパサになる。今日の唯一の反省。

これまで1.5ヶ月自炊をした中では最も美味しい食べ物ができた。良かった。積極的に休みの日は作りたい。野菜が欲しければキャベツかなすを入れると良さそう。

 

13:00 昼寝。

することがないので寝る。

 

15:00 出かける。

もともとカレンダーが欲しくて、銀座の伊藤屋で買いたかったので、重い腰を上げることにする。部屋が寒いのであまり滞在したくないのもある。

銀座には16時前に着いたが、どこも混み合っていた。当たり前か。このあいだ行った時より観光客は少ないように思った。

銀座の伊東屋は地下でカレンダーを売っている。壁掛けから卓上からあらゆるカレンダーがあり、すべて中身を見ることができる。そこで、モネの絵画のカレンダーと、三角柱型のカレンダーを買った。三角柱のほうは、つねに3ヶ月見られるようになっているので仕事用にするつもり。いまはきょねんの今頃に大原美術館で買ったカレンダーを使っているが、3枚をマステでつなげてセルフで3ヶ月カレンダーを作っていたので、進歩した。

 

伊藤屋のみなさんはみな親切である。

 

本屋にも行きたかったからそこから京橋を経て八重洲ブックセンターまで歩いたけれど、途中誤って道の反対側に渡ってしまったので建物を見ただけで終わった。

じゃあ丸善だな、と思ったけれどオアゾは駅の完全に反対側である。1年目の時に東京駅で研修していたのが役立って、迷わず反対側に抜けられたわけだが、研修していた貸し会議室は建物ごと無くなっていた。八重洲口のスーパーホテルはむかし駅からは見えなかったはずだと思ったら、その前の建物がなかった。そして、城東小学校のチャイムを聴く。

 

丸の内側は飲食店は目が回るほどあるが買い物する場所、服だの靴だのを買う場所は丸ビルか新丸ビルくらいのものである。そしてこれらは20代の所得の低いOLにとって無縁だろうとあまり積極的に入ることはしなかったが、なぜかきょうは強気になって丸ビルにも新丸ビルにも突撃した。

当然、百貨店並みに高いものしか売っていないので途中倒れそうにはなったが、ここで引き返したら未練が残るような気がして最後にアーバンリサーチに入った。入ったら客がわたししかいなくてさらに倒れそうになった。

アーバンリサーチの話もするのだが、その前に、丸ビルにはパサージュ?みたいな名前の通路があって、その両脇に店が並んでいるのだが、そこを抜けて1階に降りると見事に何もなく真っ暗だった。もちろんオフィス街だし高いビルは乱立しているのだが、土曜ということもあり音がない。あんなにおしゃれな建物なのに………と思って謎の親近感を感じた。丸ビルにもわびしさはある。ここまで書いて思ったが、これはたぶん新丸ビルの話だ、まあ東京以外の人にはどうでもいいだろう。

とにかく人生で初めて、さらにジーンズにスニーカーでアーバンリサーチに入ることに成功した。そしてさらに、スカートを買った。いま、私服はほぼ会社用の服と兼用であり、つまりは私服も何もないのだが、あまりにおしゃれじゃないので私服でしか着られない服を買うことにしようと思ってずっと探していたのだ。アーバンリサーチで出逢えるなんて。勉強もしていないのに参考書だけ買って頭が良くなったような感覚がする。

そういえば、丸ビルに本屋が入っていたので本屋に行きたい欲も満たされた。ここは蔦屋書店ほどではないが街の書店よりはきちんと選書されている印象を受ける良い本屋だった。ふたば書房。

さらにいうならばロフトもある、ロフトってどこもめちゃくちゃ混んでる印象があるが、土曜の夕方の丸ビルロフトは空いていた。

人はどちらかというとクリスマスイルミネーションイベントの方に多かった。綺麗だとは思ったが、これを一人で見るのが侘しい。

 

18:00 帰路。

せっかくだから駅弁を買って家で食べよう、料理はもうしないと決めて駅弁を買った。東北の吉田屋さんというところの、おかずがたくさん入った駅弁。牛丼!みたいなのも美味しいけれど、ふだん自炊する中でおかずを複数作ることはまずないので、幕の内的なものは大変ありがたい。

真夏に出張した時以来の駅弁だった。家で食べるのもまたおいしい。とくに牛肉のバター醤油焼きとわかめの生姜煮がおいしかった、そして自分でも作れそうだった。きょうのあさふとかぼちゃが食べたくなったのだが、かぼちゃサラダが入っていた。吉田屋さん、ありがとう。創業明治とか書いてあったので、もうこれくらいのニーズは織り込み済みなんだろうな。

 

ということでいまこれを書いている。いい日だった。

 

頭の中を整理して伝える、聞くことの難しさについて

仕事をしていて、誰かの振る舞いに、こうなりたいと思うことはたくさんあるけれど、なかなか自分がそこに近づいていない。それはもちろん、思うだけで行動に落ちてないからであり、そもそも思うだけで覚えていないからである。

だから今日思ったことは今日ここに書いておく。

 

来月から、うちのチームとしてもやったことのないレベルの重々しい案件が始まる可能性が高くなった。全国行脚、期間としても通常の倍はかかると思う。業務量としても聞いたことのない量だ。スケジュールも厳しいときた。

それを聞いてわたしは、かなり絶望的になったのだが、隣の席の推しにその話をしたら、推しがおそらく主体で進めることになろう案件なのに、まあ先の話だからね、考えないようにしています、とシンプルな回答だった。

それが大人だ……………と思った。情報をきちんと整理して聞ける人って、情報が三次元なのだと思う。三次元というのは、奥行きがあるということ、分類がされているということだ。自分との距離感や、自分に関わりそうな時期や、そういった軸によって情報が手前にあったり、奥にあったりする、そういう聞き方ができる人になりたい。

対して、わたしは二次元的なのだが、とにかく平面一面に聞いたことが広がっている。自分から近いとか遠いとかはあるけれど、重要度が高いとか低いとかは分類されていない。だから大事な話もすぐ忘れるし、どうでもいいことをいつまでも覚えている。言われて気づくことが多すぎる。これまで物覚え能力の限界なのだと思っていたが、どうやら整理能力のほうみたいだ。

じゃあどうやったら三次元的に整理できるかは、周りの人のやり方も見つつ学んでいきたい。

 

そして、この話をしているときに、電話がかかってきて、他部署の人にこの案件の状況を聞かれた。上司から聞いた話をまた聞きですがと断ってそのまま伝えたつもりだが、うまく話すことができず、ここでも推しに助けてもらうことになった。そこで思ったのが、聞いたことをそのまま伝える力がないということである。

これはたぶん、さっきの話とも通じていて、聞いたことを整理する力がないので、何か聞かれたときに覚えている順で話してしまう。相手が求めている点をうまくまとめることができない。この話なんてつい30分前に聞いた、とかそういうレベルだったので、忘れていたというのではなく、単に整理が下手なのだ。

 

この、整理が下手、というのは、仕事をする上でけっこうネックになる、というより、今の仕事ではかなりネックになる。営業的な仕事をしているので、顧客にヒアリングしてその内容をまとめてみたいなことをするわけだが、ヒアリングしているそのときに聞いたことをその場で書き起こす(ホワイトボードとかに)ことがはちゃめちゃに苦手である。何が書いておくべきことなのかが絶望的にわからない。手当たり次第にまとめておくと後で見返してよくわからない。だからヒアリング結果ももやもやしたものになって突っ込みが入る。そこで初めて大事な情報がわかる。覚えていればいいがたまに忘れている。悲しさ。

要は議事録が下手なのである。その場がどうまとまったかということが、会議にいたとしてもわからないときがある。こんな感じだったじゃんと言われても、確かにそんな発言はあったように思うが、そういう意味だったのか……と後から感心することばかりだ。感心している場合ではない。

 

冒頭に書いた案件がほんとうに始まってしまい、かつわたしが参画するのであれば、それこそ膨大な情報を集めてまとめて齟齬なく表現する技術が求められる。思考の整理とか会議の整理とか、どうしたらいいかを真剣に考えて試す冬になりそう。

ミニマリズムを目指して

ミニマリストを目指している。

 

とはいえ、ミニマリストに定義があるわけではないので、何をどこまでミニマルにしたらいいのかよくわからないが、ミニマリストという生き方を恥ずかしくなく表明できるようにしたい。いまはまだ、気恥ずかしさがある。なんか、スタバでマック広げてないのにミニマリストを名乗るのもなあ………という気がする。ミニマリストはスタバとか行かないかな。ノマドと混ざっているか。

 

関係ない話だが、フリーランスの人がよくカフェで仕事するみたいなこと(パソコンさえあればどこでも仕事できるんで〜〜)を聞くと、羨ましいと思う。わたしもフリーランスになってカフェで仕事したいということではなく、わたしは自室以外では集中できないので、外で集中できるようになりたいのだ。仕事とか作業をするわけでなくても、昼食をたとえば一人で食べに行ったときは周りの人の会話が過剰に気になってあまり食事に集中できない。だから会話している人が少ない富士そばとか松屋とかそういうサクメシに頼ってしまう。しかし富士そばは、もちろん溺愛しているが、おおむね従業員同士の仲が良くて、よく話しているのが気になってしまう。

まあとにかく、外で何かできる人はすごい。わたしは会社で仕事をするのもわりと苦痛のときがある。環境適応も遅いので、階を引っ越したときはそれだけで(周りから聞こえてくる声が違うものになって)ストレスだった。

 

さて、ミニマリストの話。

 

ネットフリックスという最強の武器を手に入れて、最初に観た映画は365日のシンプルライフという作品だ。ヘルシンキに住む男性が、全ての持ち物を倉庫に預け、1日1つずつ取り出して生活する1年間を過ごすドキュメンタリー。

最初はほんとうになにもないから、コートが防寒具でもあり布団でもありタオルでもある。冷蔵庫がないから窓と外の隙間というのか、日本の家なら網戸とガラス窓の間みたいなところに挟んでいる。当然、皿もない。バターナイフもないから、バターを指ですくって指で塗って、パンを食べる。

面白いのは、途中で彼が持ち物を取りに行かなくなることだ。毎日倉庫に行くわけではなくなる。10日に1回、10個まとめて出すという生活になる。最低限の生活が成立してしまうと、一度それ以上を求める思考は停止するのだと思う。

 

1日1つずつ捨てる、というのはミニマルに暮らすための準備としてよく言われることだ。まずは冷蔵庫にあるいつのかわからない野菜から。次に買ったけど来ていない服。そんなふうに捨てることから始める方が、今の生活を崩さずにシンプルに暮らすには楽な方法である。

しかしこの映画が、というより彼の実験が特殊なのは、全てを捨てたところから始まるところだ。たしかに、捨てるよりも拾う、得ることの方がストレスは少ないし、幸福は大きい。今は着なかったとしても、買ったときはたしかに少しはときめいた服、それを手放すのは意外とストレスだ。そう考えると、全ての服をとりあえず引っ張り出して、必要と思うものを選ぶ方が(それは必要ないものを捨てることと結果として同じだけれど)幸せなまま生活を最小化できそうな気がする。

全てを捨ててひとつずつ拾うことは、普通に働いている人たちにはなかなか難しいし、彼も下着を履かず仕事をするなどチャレンジングなわけだが、生活の中で必要なものを残していくことは、いますぐにでもできるはずだ。

 

ミニマリストを目指している、とは言ったが、気持ちとしてはおおむねミニマリストの気持ちでいる。冬の仕事服は上下きっちり5着ずつだし、冬はセーターなのでほとんどが私服と兼用である。私服でしか着ないのは鮮やかな赤いセーターと、あとジーンズ。靴だってパンプスとスニーカーの2足しか持っていない。そのどちらかを履いていけない場所は今のところない。

化粧品に関しても、基本的に全てのアイテム1つずつだが、チークとアイシャドウだけ複数もっている。さすがに休日も仕事の日も全く同じ顔は味気ないし、同じ化粧品で違う顔が作れるほど熟達していないので、色で勝負することにした。これは全てのアイテムに価値を感じているので、それはそれで良いと思っている。

 

意外と整理できないのが冷蔵庫で、捨てるものが出ないよう基本的には食べきるのだが、スーパーに行くと結構楽しいのでつい色々買ってしまう。昨日、今まで買ったことのある食材と、1食あたりのそれぞれのコスパを計算したのだが、やはり野菜のコスパが一番で、気を引かれて買い足したもののコスパは悪かった。そろそろコスパ面も意識して買い物できるようになりたい。そのためには、スーパーに寄りたくないくらいの疲れ加減まで残業することが肝要かもしれない。

残業といえば、今月になって仕事が減ったのもあるが、胃腸炎をやったこともあって食事の量を減らした。もうむやみやたらに炒めて食べるのをやめようと思った。これもある意味ミニマルに生きることの一環である。

 

ミニマルに生きるとは、味気なく生きるのではなく、自分に必要なものを選びとって、ほんとうに好きだと言えるものに囲まれて生活することだ。人間の趣味は変わる以上、これだと思えるものたちに出会うことはとても難しい。でも、それがハマったときに、もうものは必要ない、という素直な感情が湧いてくる。それが部屋中に、自分の中いっぱいに満たされた空間を作りたくて、これからも考えていこうと思っている。

 

365日のシンプルライフ、ものが大好きで捨てるつもりのない人こそ観てほしい。

芸術の良さが分かるかもしれない?

1週間で8記事と決めたのにまだこれが2つ目という。意外と言いたいことはない。

 

週末は三菱一号館美術館に行った。

 

フィリップス・コレクションという、とにかく美術を集めるのが大好きおじさんが集めた作品のうちの一部がやってきている。美術展ってある人とか時代を切り取るのも多いけど、今回は時代も国もバラバラで、有名な人の作品も多かったのでわりと初心者向きかもしれない(同じ人が描いた同じ時代の作品ばっかりだと素人は飽きるし…………)。

さらに三菱一号館美術館自体があの有名な中庭、数々のドラマや映画のロケ地になっている中庭があって、とても人工的で美しい。

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途中、廊下から庭を眺められるんだけど、計算されています!感に多少気分が悪くなる。

そしてここのすぐ近くは皇居であり、高級な店舗と高すぎるビルが立ち並ぶオフィス街でもある。東京駅のすぐ近く。東京駅の八重洲側(新幹線側)ってものすごくぐちゃぐちゃしていてあまり好きになれないのだが、丸の内側、あの有名な駅舎側は、とくに週末はしんとしていて非現実感がある。

 

さて、美術館の話に戻るけれど、結論から言うと来て良かったと思う展示だった。これまで美術館といえば修学旅行なんかで連れていかれる場所、ないしは誰かに誘われてさほど興味はなくても行く場所だったのが、今回自分の意志で行ったからかもしれない。なぜか前夜に突然、映画を観るか美術館に行きたいと思い立って、映画は時間が合わなかったので美術館に行くことにし、そこから東京中の展示を調べてたどり着いた、携帯電話の中だけではあるが、少し苦労したからかもしれない。

 

これまで作品を見て心を奪われるということはほとんどなかった、それが、最初の方に飾られていたある絵をみたときに、心がざわつくのを感じた。初めてだったから自分でも驚いた。あれ、わたし、感動している、と思った。美術を見て感動できるほどの感性を持ち合わせているとは思わなかった。ただ文学部だったから人と比べて芸術を見せられることは多かっただけだと思っていた。

飾られていたのが有名な作品(たぶん美術史に詳しい人なら普通に分かると思う)ばかりだったからだろうか。まだよくわかっていない。これが歳をとるということなのか。

 

生ものの良さなのか。やっぱり現物は違うのか。色々考えてはみるがハマる説明が見つからない。ただ、そこに良い作品がある。

 

昔と比べて感性が豊かになったのかもしれない。というか、人の気持ちがわかるようになった。あの絵を描いたあの画家の気持ちがわかるように、いや、わかるというと傲慢だけれど、察することができるようになったからか。

さきほど素人におすすめと書いたけれど、展示作品は19世紀以降のものが多いので、宗教画のように背景を勉強しないとわからないものは少なかったように思う。当然歴史がわかるとより面白いだろうけど、宗教画のあの、勉強を要する感じは少し苦手だ。その点、今回は何も考えず作品自体を楽しむことができた。添えられている解説も最低限で近視に優しかった。

 

日曜だからちょっと混んでいたのが残念だが、外にでさえしなければ何度も回れるみたいなので、混雑さえ耐えられれば何周かするのも良いかもしれない。

 

来年の2月まで。

 

メンヘラ界の頂点、直子

モニターを買った。

 

実家にいた時は月の通信量が5GBまでだったがWi-fiがあったので何も気にすることはなかった。

家電を買った時にインターネットも契約させられそうになり、ルータまで届いたが送り返した。

しかし5GBでは何もできないので、家族全員で50GBにした。

そしたら今度は消費しきれないから動画でもみようと思った。

 

うちにはテレビがない。

 

映画を観ようにもスマートフォンの画面では小さすぎるし端的に目に悪そうだ。だからモニターを買ってつなげたらいいんじゃないかと思った。やろうと思えば家で仕事もできる。

24型のモニタはテレビ台に対して小さすぎるが、テレビ台を物置として使う余地も残していてなかなか悪くないし、わたしひとりでも気軽に運べる大きさなのもいい。

 

椎名林檎のライブ映像をギャオで配信している。

わたしはそれをファンクラブのメルマガで知って、即モニターとiPhoneをつなげたわけだが、そういえばギャオって映画あるやん、と思ってみたらGO、ノルウェイの森といった懐かしの映画(俺の歴史の中で)があって、これは良い娯楽である。

 

通信量も消費できるしモニターも無駄にならないし、家で娯楽になるし、かなり合理的と言わざるを得ない。

 

という流れがあって、ノルウェイの森をざっと、というか、最初と最後だけみた。開始15分と、最後40分。ざっくり半分弱。

直子とワタナベがセックスするシーンはもっと後半だと思っていたらすぐだった。すぐやってる。

 

そもそもノルウェイの森との出会いは原作の方で、大学1年の時、つまり2013年の冬、大学の課題で読むことになった。いちおうチーム分けがされて何人かで資料を作る必要があったが、わたし以外のメンバーは、いやわたしも含めて、さまざまな方向で集団行動に向いておらず、とりあえず資料はわたしが作ったのを覚えている。

この小説は主人公の18〜21歳くらいまでを書いているが、ちょうどそのときのわたしは19歳になったばかりで、まったくこういった恋愛の話には縁がなく、つまり初読の時は共感も反感もなかった。いうなればパラレルワールド(村上春樹なのでパラレルワールドである、という見方もできる)。

 

たしかその資料を作る時に映画も借りたのか、その次の冬に借りたのか。次の夏、20歳になる前にわたしはある男と過ちを犯し、それを彼らに重ねて映画を観たような気がする。勝手である。あんなに美しいものではなかった。

とにかくノルウェイの森には、原作も映画も少しは思い出がある。

 

2014年の冬には共感を覚えていたが、2018年の冬になって観たら全然だった。何が良いんだ。映画としてというか、映像としては大変美しいが、このストーリー、なんだ。誰にも共感できないし、みんな揃いも揃ってメンヘラ過ぎるだろう。

 

主人公。すぐ抱く。抱き惜しみしてくれ。メンヘラホイホイ。

 

直子。18と19の間を行ったり来たりするなんてわたしは耐えられない。あんな衝動的だった時代には戻りたくない。18のままだってもうキズキはいないんだぞ。

一緒に住もうってワタナベが言わなければよかった、そもそも抱かなければよかったんだけれど、一緒に住もうと言われたことは直子にとって、自分の人生が他人に影響してしまったということ。キズキと寝られなかったということは、根本的にはキズキとは交わらなかったということ。そのキズキが死んでしまってさえ、耐えられないのだから、こんどは自分自身が誰かの大切な存在になったら、死ぬしかない。

ちょうめんどくさいメンヘラ。誰かに大切にされたいのに誰とも関わりたくないんだね。あえていうならレイコさんとの同性愛的関係には安心するのだろうか(ちょうど真ん中なので全然観ていない)。

でもとにかく、菊地凛子は良すぎ。旦那が年下というところも、良し。

 

緑。水原希子にこういう役がはまることはまあ、見た目でわかるけれど、数年たっても狂わせガールとして妻夫木くんを狂わせていた。(奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール)

緑は直子と違ってエネルギーの塊みたいな言われ方するけど、ふつうにメンヘラでは?というか、気分屋では?話したくないの!からの、あなたを待つわ!という。なんでそんなに松ケンがモテるの??

 

そもそも、わたしが大学生という生き物をこの世のなにより嫌いなので、それによってだいぶ悪い方に悪い方に解釈してると思うのだが、にしてもなあ、みんなもっと自分の足で立てよ…………。

唯一、永沢さん(遊びまくってる大学の先輩。玉山鉄二めちゃくちゃかっこいい)の、自分に同情するのは卑劣な者のすることだ、というのが刺さっていて、この人はきっと留年しまくってるからたぶんわたしと変わらないかそれより上くらいの年齢なんだけど、この映画の中の大人ってこの人しかいないんじゃないか。

あと、なぜか出ている糸井重里

 

ノルウェイの森が蛍という短編が元になっているのは有名な話だが、この蛍のほうがよかった気がする。

 

まあそういう感じで、結局映画のことを書いたが、モニターを買った話でした。

 

このブログも2周年です。

いつも人の悪口しか書いていないので、たまには明るい話を。

 

そろそろ2周年です。

 

とはいえ2年で100記事、ツイッターもやってないので告知する場もなく、誰かに教えたわけでもないこの場所が、果たして見つけられているのか不明ですが、書いたら終わりのわたしにとってはどうでもいいことです。

2年前は就職が決まり、どうにも暇で暇で仕方なく、昨日も今日も教習所、卒論、バイト、飲み、みたいな単調極まりない生活をしておりました。いまのほうが仕事、休み、の2通りですが幸せです。

そのなかで、だいすきだった、いまもだいすきな、永久欠番でもっとも好きな雨宮さんが亡くなったことが、ここを始めたきっかけでした。雨宮さんがいなくなってしまったから、わたしが考えたことはわたしが発信しなければいけなくなった。

それから就職を機にいったん書くのをやめたのですが、やはりどこかで表現したい言葉たちがたまっていて、なんとなくここまで続けてこられております。

毎日更新してもさほどアクセス数の伸びない、雨後の筍はてなブログの片隅で、これからも日常のもやもやを書こうと思います。

 

よろしくお願いします。

 

さて、どちらにせよアクセス数が伸びないのはわかりきっていますが、雨宮さんが亡くなった15日までの1週間、毎日更新を目指そうと思います、というと心が折れそうなので、1週間で8記事書きたいと思います。つまり、休みの日に書きだめして1つずつ投下する……。

 

明日8日からチャレンジします。幸い、下書きを投稿するだけで8記事は余裕なので、あとは推し(隣の席の人)のことでも考えてようと思います。

愚痴っていいですか?って話しかけてくるのが激萌えすぎて胃がまた壊れそう。

 

今食べたいものはキムチ鍋とカップラーメンと雪見だいふくと、あと、誰か人と食事をしたい。

 

独りよがりですが2周年企画!お楽しみに。

食べて吐くだけが過食じゃないかもと思った話

腸炎になった。

正確にいうとまだ完全には回復していない。とても、つらい。

 

土曜の午前、1週間分の食料をまとめ買いするのだけれど、このあいだの土曜はいつもより数倍、帰ってきたときに疲れたような気がした。

たしかに毎週残業は増えてるし、先日ついに弊社の規定を超えたし(休暇を取ることでごまかした)、休みの日に午前中起きて動くことがそもそも厳しいのかも、とりあえず二度寝しようと思ってソファで寝た。

起きたのはたしか14時くらいだったと思うが、そのとき異常を感じた。

胃が荒れている…

生理がある人ならわかると思うが、重い生理痛みたいな痛みが、ある間隔ごとに訪れる感じ。わたしはそんなに胃が強くないので、多少の痛みは日常であり、今回もその延長であればいいと願ったが、どうも治らないし、どんどんきつくなる。

夕方には起きられないくらいになり、そこから日曜の夕方まで、丸一日半、絶食生活になった。後半は絶食による痛みなのか、なんなのか、わからなくなっていた。

このままだとセルフネグレクトだ、と危機感を感じ、こまめに親と連絡をとりながら、月曜は休んで病院に行くことを約束した。病院が何をしてくれるわけでもないが(病院をバカにしているのではなく、そこまで重篤な症状ではなかった)、病院に行くためには着替えたりもろもろ準備したりが必要で、要はセルフネグレクトを抜けられると思ったからだ。それくらい、ほぼソファから起き上がらなかったし、ソファの前の机の上はゴミだらけになっていた。

 

なんとか月曜は、これもかなり時間がかかったが病院に行くことができ、少しの固形物も食べることができ、なにより薬という安心感を得て、きょうは出勤することもできた。毎日当たり前のように会社に通っていたが、当たり前じゃないと痛感した。みんな、やっぱり偉いぞ。

 

ここまでは、まあよくある顛末なわけだが、問題はこれを繰り返さないための原因は何かという究明である。

 

腸炎なので胃に負荷がかかりすぎたのだろうと思うが(医者は気さくでいい人だったが栄養の足りてないわたしは何を言われても覚えていられなかった)、おそらくその原因はふだんの食生活にある。

ほぼ毎日自炊をするようにしているし、クックドゥ的な簡単に調理ができるものも使わないのだが、いかんせん夜が少し遅い分、食事は21時ごろになってしまう。野菜中心にしてもいるけれど、辛いものや刺激物や味の濃いものが好きなので、どうしても味噌と豆板醤と赤唐辛子!みたいな料理が増えてしまう。

それでいて、寝るのは23時と固く決めており、要は食べてから寝るまで下手すると1.5時間くらいしかない。しかも23時になるとすぐ寝る。この時点で、胃がかわいそうだ。事実、夜中に目が醒めることも何度もある。たぶん、消化しきれてないんだろう。

 

それに加えて、辛いものを食べると反動で甘いものが食べたくて仕方なくなり、たとえばキムチ鍋をやれば必ずアイスを食べる。多少お腹を壊しても食べる。意地である。そして、胃がかわいそうだ。しかもこれを22時近くにやってるのだから。

 

この食習慣自体が胃腸炎になりたがってるとしか思えないことに今になって気づいたのが、それより恐ろしかったのが、わたしのなかで食べるということがストレス発散法の中で大きなポジションを占めているらしいことだ。

 

たしかに昔から食に走りがちだった。大学の時も1年に数回3日間とか寝込んでいた。だいたいは食べ過ぎ飲み過ぎ働き過ぎだった。学びがない。

とくに夕食というのはもっともカロリーを取らなくていいはずなのに、ストレスフルな職場から解放されたことの証でもある気がして量を食べてしまう。さらに、一人暮らしをして余計に食べるのが早くなった。15分で作って5分で食べる、10分休んで風呂入る、みたいな生活を平気でしていた。

 

ここでタイトルの話にやっとなるが、これは小さな過食であり小さな自殺だと思った。

 

過食といえば食べて吐く、ないしはひたすらに食べて肥えるさまをわたしたちはすぐ想像してしまうのだが、なにかストレスを感じたときにそれを食で発散しようとすること自体、過食というか摂食障害の入り口なのではないかと思った。

女の楽しみは高くて可愛い食べ物とコスメ、ほとんどそれしかないのだが、それ自体欲しくもないのに手に取ってしまうようになったら本当に怖い、と実感した。コンビニの少額買い貧乏って、実は欲しくもないものを買ってしまう病気なのではないか。コンビニにはないものがほんとうは欲しいのではないか。

 

おもえば、平日は手に入らないもの、会社の近くでは手に入らないもの、たとえばおしゃれなバルでのワインとか、サンローランの強そうな口紅とか、オーガニックのなんか、とか、そういうものが欲しくて、でも平日はそんな買う時間なんてなくて、そういう状況で唯一平日でも買えるのは食料品だった。しかも、基本的な野菜と肉と調味料は常備してあるので、嗜好品。平日は嗜好品の日。

そうやって一度に買う量は少なくても積もった結果が、胃腸炎だ、笑えない。

 

ほんとうは平日ももっとだらだらしたいし早く帰りたい。みんながフロアにいるうちに、誰かより早く帰りたい。ちょっと時間のかかる料理もしたい。

そういう気持ちをむりやり押さえつけて仕事をしていたから、結局仕事を休むことになってしまった。

 

あたりまえだけど、ちゃんと自分がなにを考えてるかに向き合うこと。ポエムで覆い隠してまだいけるかもと思っているからこういうことになる。幸いわたしは精神的に潰れることがほとんどなくなってきたが、もちろん容器としての肉体も大変に大事であり大事にしたい。大人になって体の心配してくれるのなんて、親か自分くらいしかいない。

 

ということで、胃腸炎からの学びでした。