わたしの人生語呂合わせ

OLの穏やかな思考

誰かとたたかうってどんなこと

誰かと競争したことがないな、と思った。

 

スポーツは得意じゃなかったので、徒競走は最後の一番遅いグループ、組体操は土台(踏まれもしない一番した)、騎馬戦は支える方。

 

受験は二回やったけれど、あれは当日だけ他者がいるわけで他はほとんど自分の自堕落な意識との戦いだ。大学受験は特にそうだった。

 

大学の中でもグループディスカッションとかしなかったし、文学部は人と違うことが価値だから誰かと比べるということがない。同じか違うか、という判断しかなかった。

 

就活もそう、ディスカッション中は相手の出方を見たり牽制したりがんばるけれど、ほとんどは自分の無気力さと、思い込みと、自分が作った世間の偏見との戦いだ。

 

これまで22年間で、誰かと争って一番を目指したことって、厳密に言ったらないな、と思った。

これから社会人になったら、比べられるのだろうか。だろうな。優秀かどうかをあらゆる角度からジャッジされるのだ。

戦ったことがない人間は、判断を下されたことがない。優れているか劣っているか、自分だけの基準ではかっているだけだ。

 

自分に自信がないゆえのネガティヴ発言や自虐を繰り返す人(私だけど)は、他者の基準を内面化できないのかもしれない。

つまり、判断の尺度が自分しかなく、自分から見たら大したことがないので、ネガティヴな気分になる、または、自分としては基準を満たしているつもりだが、ハードルはどんどん上がって行くので(うまくもっていけば向上心として見せられるのだが)、永遠に満足することがない。

他者の意見を聞くことがないので、褒められても頭ごなしに否定する。それは相手に対して悪意はなくて本当にそう思っているのだ。

 

とくに文学部で顕著だったけれど、結果が数字に出ることがない。たとえばディスカッション大会で何位だったとか、何分何秒で泳いだとか(水泳は自分との戦い要素が大きいかもしれないが、すぐ隣で泳いでいる他者が存在するのだ)。論理的かどうか、他者を感動させられるか、といった数字にならない曖昧な基準がむしろ大事になってくる。

 

そういう環境にいると、ジャッジされるのがものすごく怖くなる。人にどう思われているかほんとうに全く気にならない人はそんなにいないと思うけれど、その度合いが強烈になって、そしてさらに自分を責めることに終始するのだ。あの人は私をよく思っていないに違いない。または、あの人が私をよく思うはずがない。どちらも他者を欠いた、貧乏なコミュニケーションだ。

 

戦うことに、慣れたい。

そして、自分との膨大な戦いをやめたい。いかにも思春期というか、子どもじみた、つまらない、自分との戦い。

 

最近とくに時間があるからずっと自分の性格の歪みの原因を導こうと必死だけれど、そんなものはわからない、無理なのである。

 

他社と比べた結果、数字として明確に私が優秀で仕事ができて魅力的だとわかった時に、やっとまともに生きていけるのかな、なんて、甘いことを思う。