わたしの人生語呂合わせ

OLの穏やかな思考

なぜセクハラが不愉快か真剣に考えた

隣の国の首脳会談の前までは世間はセクハラでいっぱいだった。連休に入って逃亡犯がつかまって影を潜めたが飲み会のたびに話題が出る。言葉遊びの人と女子大生を買った人とが同時に出たのでさらに話題性があった。

 

セクハラされていい気分の女なんているわけがないが、じゃあ何が不愉快なのかについて真剣に考えた。高速バスの移動中暇だったので。

ただし、性別の自意識が完全に曲がってしまっているわたしの個人的な感想です。

 

セクハラ、なにがどこまでなのか定義はないけれど、(ここでは仮に被害者を女性として)女性であることを過剰に強調してネタにすることだとして、たとえば彼氏いるの?(いたことあるの?)をセクハラだとしよう。

それを言われた時、わたしは自分が女であることを逆説的に?意識させられるのだ。わたしは他人から見て女であり、ヘテロセクシュアルであり、当然男と交際しているだろう年齢であり、それなのに交際していないのが不自然という文脈での、セクハラ。

ふだん一人で過ごす日々に、女であることを意識させられることはない。仕事に性別は関係ないし、同期や先輩とは人として仲良くしている。上司は男性だが妻子持ちなのでなんの情もわかない。当たり前だけど。

それが、セクハラされたとたんに、上に書いたようなことがわーっと襲ってきて、冴えない俺、死んでくれ〜〜〜〜!!!となる。セクハラしてきた大人たちではなくて、そこに応えられない自分に対する苦しさ、つくづく自分のことしか考えてないが、自分が自分を否定することが、他者に罵られるよりつらい。

 

そして、この問題について真剣に考えていると、性とは?という哲学にたどり着く。わたしは性別をあまり信じていないけれど、世の人はわりと信じているらしい。女性はこうされたら嬉しいとか嬉しくないとかモテテクとかそういうものが溢れている。影響を受けている自分がいる。性を疑うことそのものが性に縛られていることと気づく。ジェンダーフリーでいたいのに。苦しい。全ての人にフラットにいたい。

 

女として蝶よ花よと愛でられてきたわけではないことから始まって、性を受け入れられないのか、性を疑っている(性別で人が決まると思っていない)のか、その揺れの中にセクハラが入ると、わたしは大げさに言えばアイデンティティが崩れるほどの恐怖を感じる。わたしが何年もずっと苦しんできたことをいともかんたんに乗り換える人がいる。昔お前も女の子なんだなと言った男がいたけれどその言葉でわたしはさらに自分が女であることを恥じた。今もずっと恥じている。

 

なぜこんなに自己否定に走るのか、それは女は可愛くて弱くておしとやかであるべきという世間の目に自分自身が囚われてしまっているからであり、最初から女という性別に何かが背負われていたわけではないのに、女に生まれた責任を果たしていないみたいな気がしてしまう。女のやるべきことから逃げているような気がする。お酌をしてもセクハラに耐えても、最終的には黙って男に選ばれるのがいい女であって、自分はそうなれるはずがないとどこかで思っていて、それを否定したくて、ずっと苦しんでいる。

 

彼氏いるの?と聞かれたとき、わたしは自分の性との向き合い方そのものを問われている気がして、質問そのものはどうでもよくなる。そんなことより苦しさはわたしの自意識にある。たとえばこれがパートナーいるの?と配慮した形であったとして、人は交際すべきという考え方にそれはそれで吐きそうになるし、じゃあ誰とも交際しないのかと問われれば、きっとわたしはアロマンティックなところがあるのだと思っている。恋愛のときめきを求めていない。人とのつながりを否定しているわけではない。ただ、ときめいたり駆け引きしたりの体力が無いだけ。みたいなことをいちいち言うのも面倒なので、最近は彼氏いたら乾杯の前に発表してますよ〜!という、個人的にはゼロ点だが世間の受けはいいギャグで乗り切っている。何が面白いですか、このギャグ。

 

でも、メンヘラ系ラブソングはめちゃめちゃ好きなんですよ。わかります?わたしはよくわかりません。しまなみ誰そ彼のあの女装する男の子みたいに、自分のことがわかりません。あと彼の名前忘れた。