わたしの人生語呂合わせ

OLの穏やかな思考

どんな状態だって生きていていい

悲しいニュースを聞く。胸が締め付けられる。当事者の気持ちにはなれないからこそ、せめて断絶してはいけないと思う。

 

たとえば、5歳の女の子が虐待されて亡くなった事件。わたしには子どもがいないし作る予定もないから関係ないとは思いたくない。5歳にしてしっかりとした文章をお書きになっていた彼女のことを考える。親は子どもを愛せとは思わないが、頼みの綱が親しかない子のその綱を離してはいけない、全くの赤の他人でも何かできなかったかと思ってしまう。もちろん、わたしは報道されていることしか知らないし、関係者の誰にもなれないから、せめて、彼女のことを考える。

23歳のわたしは、風呂も洗ってなければ勉強も彼女よりずっとしなければならないがしていないし、息が切れるまで運動もしていない。そもそも最近文章という文章も書いていない。それでも生きることを許されている。だから彼女にも生きて欲しかった。彼女が死にたがったわけではないが、なぜか自殺する中学生のことを連想してしまう。生きていて欲しい。

 

また、これは真反対の件で、新幹線内の殺人事件。ふだん出張だの旅行だので新幹線に乗る者として、というより大多数のサラリーマンが恐怖したんじゃなかろうか。無差別。手の打ちようがない。

自らも、怖くなかったはずはないのに女性を庇った男性。どうしたらそんなことができるのだろうと思う。こうやって、圧倒的に他者のために生きられる人がいる。周りの人間からの評判も高い。みんな悔しい、憤っている。そういう人から犠牲になっていく。生きていて欲しいと多くの人が願っている。彼はみんなの中でまだ生きている。

自分も新幹線で無差別殺人にあったらどうしようという気持ちと、そのとき迷わず自分の身を投げられるだろうか、という気持ちがある。自分には無理とすぐに断絶したくない。ぜったいにわかりようのない、他人の気持ちというものに、できるだけ寄り添いたい。できるだけ。

犯人は、他にも多くのことを語ったのだろうけど、むしゃくしゃしていて誰でも良かったという言葉だけが報道される。いったいどういうときにそんな発言ができるのか、どういうときにそんな気持ちになるのか、と思う。みんなどこかしら、むしゃくしゃして誰でも良かった気持ちになりながら抑えている。わたしはやたら買い物をする、カラオケに行く、深夜にメンヘラになりブログを衝動的に書く。このストレス社会で、なんとか自分を押さえ込んで生きることの良し悪しは分からないけれど、他人の人生をどうこうする権利は誰にもない。そんなの、アイヒマンの時からずっと言われているのだ。アレントの文章。

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

悪はいつだって凡庸だ。

 

どんな状態だって生きていて良い、最近そう思うことが増えた。やっと自己肯定ができるようになってきたからかもしれない。自分に対してだけじゃなくて周りの人にも思う。まったく関係ない人にも思う。どんな状態だって生きていて良い。もちろん死んで欲しいくらい憎まれている人もたくさんいるけれど、ここで言いたいのはそういうことじゃなくて、有り体に言えばメンヘラだっていいということだ。たしかにメンヘラはほんとうに迷惑でしかないので、いないに越したことはないが、均一化してみんな心が健康な社会より、みんながちょっとずつ病んでるけどお互いを受容している社会の方がいい。そうやって大きいことを思う。断絶しないということは、こういう意味でもある。

 

特に言いたいことがあるわけではなくて、悲しいに任せて書いたけれど、こんな沈むような救いのない悲しみはあまりなくて、途方に暮れてしまっている。全く知らないはずの5歳の女の子に生きていて欲しいと思う。大人になると、指数関数的に楽しいからね。ぜひ、そちらでさみしくなったら我が家まで来て欲しい。5歳の子が食べられるものを作れるかは分からないが、とりあえずお腹いっぱいになるくらい食べるものはあります。